一億総他責社会を読んだ。自分もその因子を持っているように感じたからか、身につまされる思いを持った。常に周りを見て誰か自分より下の人を探してしまう。上の人を見て絶望し、下のひとを見て安心する。周りの人との比較の上で自分を判断してしまうため、自分自身で自分のことを評価できていない。だから、世の中の流行りのこととかにすぐ飛びついてしまう。中途半端な知識の状態で特にやりたいことでもなかったから、続かなくなってくる。そして色々な方面で中途半端になり、器用貧乏になっていく。
根本的な感情の反応を考えていきたい。おそらく自分の行動を否定、批判されたくないという気持ちが大きいと感じている。その批判の受け取り方がネガティブな方向に大きくドライブされている感じがある。他の人はなんとも思わない指摘に対して、怒られたと思ってしまう節があった。
どうしたら自分が批判されないかを軸にしているのはなぜか。怒らないいい人、仕事をきちんとこなす優秀な人でありたいという気持ちの表れかもしれない。低能だと認識してしまう場面を自分の中に見つけたときに、激しく動揺するしそうでない理由や言い訳を探す癖もある。そういう意味では完璧主義的なところが大いに悪さをしている可能性はある。
自分の得意な部分や譲れない部分ではそうあるべきなのかもしれないが、すべての分野でそうあることは自分を苦しめるだけである。この譲れない部分というのは鍵で決して得意かどうかはわからないけれども、この分野では頑張りたいというものがあるだけで違うと思う。私は今色々な仕事を振られていて、この仕事は向いていないなというのは分かりつつある。おそらくそういった仕事はどんどん自分の手から離していって、自分が譲れない部分を作ることでその部分は私がしっかりとやるという責任感を発揮すれば自分の軸が固まっていくのかなと。
そういう意味ではまずは人目を気にせず、やりきってみるということが大事なのかなと。
発達障害の増加については、第二次産業から第三次産業への変化が主要因だと述べている。サービス業では高いコミュニケーション能力が必要となったため、職場に適応できない人も増えた。その職場自体も昔のように終身雇用もなくなり、面倒を見ようという感覚も無くなった。そして会社のみならず、世間という共同体が消えつつある。特に都会部では面倒な風習やマナーはどんどんなくなっていく。これらの行事は近隣の人とのつながりを維持し、世間という共同体を形成することにつながっていた。人は知らず知らずのうちに共同体に対して、自分を支えてくれる意識や帰属意識を持つようになっていた。面倒な人間関係を避けようとして、実はその人間関係に生かされていたと思うと面白い。
現実にはすべて公平というわけにはいかない。いい意味であきらめることも重要。しかし、努力しても報われないと嘆くだけで、何もしなかったら何も始まらない。
コメント